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日本海洋文化総合研究所

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船橋に残る海の記憶 ──地理・灯台・民話から読み解く東京湾奥の海洋文化

2026年5月5日、千葉県船橋市で「灯台と海の記憶をたどる 街歩き&フォーラム」が開催された。本フォーラムは、地理女netと日本海洋文化総合研究所の協働のもと、都市化によって可視性を失いつつある海との関係性を地理学的視点から考察し、船橋の海洋文化を再発見することを目的としている。

午後の街歩きに先立って行われたフォーラムでは、地域に刻まれた海の記憶を多角的に捉える議論が展開された。冒頭、地理女net代表の森順子氏は、教科横断的な学びの基盤として地理を位置づける考えを提示し、地図記号や名画の解釈を例に挙げながら、文化や歴史の読み解きに地理学が深く関与している点を強調した。また、景観の魅力や地形と結びついた食文化、街歩きといった体験的要素は、女性の地理への関心を高める入口にもなりうると述べた。

続いて、日本海洋文化総合研究所の池ノ上真一氏は、現代における海離れの進行に警鐘を鳴らした。海水浴客の激減や沿岸地域の衰退を背景に、海との接点を再構築する必要性を指摘し、「海ノ民話」や「海と灯台学」といったナラティブを通じて、地域づくりや防災、観光へとつなげる構想を語った。

パネルディスカッションでは、「船橋から読み解く東京湾奥の海洋文化」をテーマに、都市地理学、文化財研究、街歩きの実践といった異なる視点から議論が深められた。船橋は江戸湾の最奥部に位置する漁村として、海産物を江戸に供給してきた歴史を持つ。現在は埋め立てによって海との距離が生じているが、神社の立地や地形の起伏には、かつての海との関係性が色濃く残る。

船橋に伝わる『雪どけ塚の白ヘビ』は、嵐に遭った漁師が、陸上の白ヘビの目が放つ光を頼りに帰還したという民話である。この伝承にみられる、人々を海難から導く光のモチーフは、近代的な灯台が整備される以前から、灯火を航海安全と結びつけてきた沿岸信仰の一端を示している。そうした信仰的・象徴的な灯りの観念は、意富比神社(船橋大神宮)に残存する灯明台にも通じる。

海へと延びる参道を有する意富比神社の高台にそびえる灯明台は、沿岸を航行する船の目印として機能していた。また、神社の名称については諸説あるが、「おおひ(大火)」に由来するとの説もあり、海運業者や漁民の信仰の対象となった可能性が論じられている。こうした背景から、灯明台は単なる航海施設にとどまらず、海とともに暮らしてきた人々の祈りを託す場でもあったことがうかがえる。

さらに、東京湾全体に視野を広げると、地名や伝承を通じて人の移動や文化の広がりが浮かび上がる。例えば、紀伊半島と房総半島に共通する地名や、東京湾沿岸各地に伝わるヤマトタケル伝説からは、海を介した人々の往来と信仰が広がっていった可能性が示される。

観光の観点からは、船橋がかつて保養地や別荘地として栄えた歴史に加え、漁業や海苔養殖といった海に根差した産業が改めて注目された。一方で、首都圏のベッドタウンとしての性格が強いことから、住民が船橋の地理や歴史に触れる機会が限られるといった課題も浮かび上がった。通勤・通学の拠点としてだけではなく、地域に受け継がれる文化資源を再発見し、土地への関心や愛着を育むための仕組みづくりが求められている。

本フォーラムを通じて見えてきたのは、都市化の陰に沈みながらも、なお船橋の各所に息づく海の記憶である。その痕跡を探ることは、この街がどのように形づくられてきたのかを知り、地域の未来を構想するための重要な視座となるだろう。

消えた海岸線を歩く

埋め立てによって後退した海岸線は、現在の都市景観の中に隠されてしまった。しかし、その面影は街の随所に見出すことができる。

午後に行われた街歩きでは、船橋の地形や歴史の足跡をたどりながら、街と海との距離感を体感していった。案内役を務める小川順一氏(地図ラーの会 カイチョ)に導かれ、参加者はかつての地域の姿に迫った。

まずは京成船橋駅前から出発し、徳川家康ゆかりの船橋御殿通りを歩く。家康が鷹狩りや警備の拠点として築いた船橋御殿は、海と内陸の双方にアクセスしやすい立地にあった。わずか半世紀ほどでその役割を終えたとされるが、周辺には今も昔日の名残が点在する。

御殿通り沿いに位置する道祖神社は、地域の守り神として大切にされてきた。小祠が多い道祖神の中では珍しく鳥居を備えており、地域信仰の厚さをうかがわせる。また緩やかに湾曲する道路には旧道の面影があり、当時の人々の往来が現在と重なる。

その後、御殿跡地に建立された東照宮に足を運んだ。徳川家康が祀られるこの場所は、日本一小さい東照宮とも言われ、船橋御殿が廃された後も、地域の中で家康とのつながりが語り継がれてきたことを感じさせる。鳥居の足元には、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿も見られ、小さな社の中にも東照宮らしい意匠が凝らされていた。

続いて一行は、海老川へと移動する。現在は整備された都市河川だが、かつては幅が広く、海と直接つながる重要な水路だった。船橋の地名は、古代の英雄・ヤマトタケルノミコト(日本武尊)が東征の折、海老川を渡るために舟を並べて橋にしたという伝説に由来する。魚や貝をモチーフにした橋の装飾には、地域の海洋文化が視覚的に表現されている。

海老川を渡り、意富比神社へ向かうと、周囲の地盤がわずかに高くなっていることに気づく。意富比神社が海岸低地を見下ろす微高地に位置している点は、沿岸集落における土地利用や信仰の形成を考える上で示唆的である。

船橋大神宮の名で知られる意富比神社は、長きにわたり地域信仰の中心を担ってきた古社で、その創建は西暦110年頃にさかのぼるとも伝わる。参道は東西方向に伸び、かつてその先には海原が広がっていたという。こうした立地からは、神社と海とが密接に関わっていた往日の景観を垣間見ることができる。さらにその関係を物語るように、境内東方の高台には灯明台が残されている。

さらに歩みを進めると、かつて塩づくりが行われていた三田浜塩田の跡地や、暗渠となった本海川が現れる。これらは都市化によってその姿が見えにくくなったが、船橋が漁業や水運とともに発展してきた土地であることを今に伝えている。加えて、この一帯は明治時代に塩田として利用された後、海浜リゾートや行楽地としても親しまれるようになり、戦後には船橋ヘルスセンターが開業するなど、海辺のレジャー空間としての系譜も受け継がれていった。

最後に旧船橋宿の入り口に佇む西向地蔵を訪れ、街歩きは締めくくられた。かつて海へと続いていた参道、航路を支えた灯明台、河川にまつわる伝承や地名は、海岸線が後退した現在の都市空間にも、なお残り続けている。海が日常から遠ざかっていく時代に、街に刻まれた海の記憶をたどる試みは、埋もれていた船橋の成り立ちを、再び現在へ引き寄せるものとなった。

ライター 佐藤真生