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日本海洋文化総合研究所

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灯台が指す未来への旅路③ 〜海と灯台学カンファレンス2025 レポート  第3セッション〜 

灯台観光を基軸とした新たなコラボレーション―⼈、場所、ストーリーをつなぐ

第3セッションでは、石村智氏(独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所)をはじめ、北前船研究の第一人者である高野宏康氏(小樽商科大学)と京都北部を拠点に海難事故や港湾史を研究する稲穂将士氏(京都府教育庁)が登壇し、日本海をめぐる歴史的文脈の再解釈を通じて、灯台を核とした新しい地域連携の可能性が議論された。

石村氏はまず、「荒々しく寒々しい」という固定的なイメージで語られがちな日本海について言及。かつて北前船がこの海を往来していた歴史に触れ、温暖な季節には穏やかな表情を見せる日本海は、人と文化を運ぶ「安全な航路」であったと紹介した。また、日本海沿岸地域では、厳しい冬をともに乗り越える中で、独自の地域社会や相互扶助の文化が育まれてきたことも示された。

近年では、世界遺産や日本遺産の認定制度、文化財保存活用地域計画などの枠組みを通じ、ヘリテージを物語として再構築し、人・場所・時間をつなぎ直す試みが広がっている。石村氏は、日本海という海洋空間を視座に据えることで、地域に息づく文化的連続性を再発見することの意義を提起した。

北前船を守る共助の灯火(高野宏康氏)

石川県加賀市出身で、北前船の船乗りの家系を出自に持つ高野宏康氏は、北前船と灯台の関係を、近世から近代にかけての海上交通史の視点から紐解いた。氏は、北前船の寄港地として栄えた酒田や松前、能登などを取り上げ、石造りの高灯籠や木造の常夜灯など、地域ごとに異なる灯火の形態が存在したことを紹介。航路標識としての実用性と、その土地ならではの文化的特色が示された。

こうした灯火の背景には、北前船を取り巻く経営の実態がある。北前船は自らの積荷を自らの船で運ぶ「買積経営」という自営型の航行形態をとっており、台風シーズンに海難事故が多発すると、経営そのものが危うくなることも少なくなかった。

そのような事情から、地域の船主や豪商は私財を投じて常夜灯を維持・管理してきた。青森県野辺地町の野村家が1827年に建立し、運営を担ってきた常夜灯や、石川県志賀町の日野家が1608年から守ってきた福浦の篝火などが、その典型である。野辺地町の常夜灯は、のちに近代的な灯台へと整備され、航行の目印としての役割を引き継いだ。同様に福浦の篝火も、灯明堂や木造灯台へと整備され、現在の旧福浦灯台へと継承された。

それぞれの地で、民間の手によって守られてきた灯火は、地域社会が自ら海運と船乗りの安全を守るという共助の文化を物語っている。

海難事故から紐解く交流と共生(稲穂将士氏)

続いて発表を行う稲穂将士氏は、京都北部の丹後地域を拠点に、海難事故や海運システムの維持構造について、地域の視点から研究を行ってきた。氏は、航海に適した条件が整うまで船が停泊できる港、いわゆる「風待ち・潮待ち港」の事例から、江戸期の海上ネットワークの多様性について語った。

丹後の伊根浦は、「東洋のベネチア」と呼ばれる海辺の集落で、鰤漁をはじめ漁業で有名な港町である。また、年間5,700艘もの船が寄港した記録が残るなど、風待ち・潮待ち港であったこの地は、北前船の寄港地として人や物資が活発に往来した。一方で、伊根浦近海は海難事故の頻発という問題を抱えていた。稲穂氏は当時の国絵図を示し、海難が多発した地点や航行上の注意事項が詳細に記されていることを解説した。また、相次ぐ海難に対処すべく、但馬の諸寄浦では、1711年に地域住民が常夜灯建設を願い出る「灯明願書」を豊岡藩奉行へ提出している。こうした常夜灯は、後の灯台の原型といえる存在である。

風待ち・潮待ち港は、荒天に伴う長期滞在や難破船の受け入れを通じて、物や情報が行き交う拠点としても機能するようになったと稲穂氏は述べる。先の第2セッションで語られた「エルトゥールル号遭難事件」をきっかけとする和歌山県串本町でのトルコ人との交流も、その象徴的な事例だといえるだろう。

灯台を結ぶ未来の旅路 ― ディスカッションより

ディスカッションでは、近代化した政府が外国の要請を受けて建設した印象の強い灯台だが、日本海側では江戸期からすでに民間の手で灯明が設けられていた点を石村氏が強調すると、高野氏は「北前船時代に整備された常夜灯が、その後の灯台建設の原型となった可能性は高い」と反応。稲穂氏も「地域共同体が担ってきた海上安全の取り組みが、近代国家によって吸収され、制度化されたと解釈できる」と応答した。

北前船遺産が現代の観光にいかに取り入れられているかに話題が移ると、高野氏は小樽での取り組みを紹介。北前船を起点にすることで、既存の名所だけでなく「知らない小樽」の魅力を伝えるツアーが組めると述べ、港を巡るフェリーでの交易追体験の可能性にも触れた。また、舞鶴と小樽を結ぶ新日本海フェリーの航路については、近世の北前船の道を現代に継承しており、文化や交流を運ぶ役割を引き継いでいると指摘した。一方、稲穂氏は、丹後での北前船ツアーのガイド養成講座を紹介し、地元の船乗りの子孫が語り部として歴史を伝える試みなどを報告した。

山田拓氏は観光事業者の視点から「日本海側は人口密度が低く、サイクリングツアーなどの新たな観光導線を設計しやすい。“裏日本”呼ばわりするのではなく、潜在力のある観光地として再評価するべきだ」とコメントした。

灯台を魅力的な観光資源にする試みの中で、北前船の歴史をその物語にどう位置づけるかは重要な論点である。北前船が活躍した時代と灯台建設の時代、その間に横たわる時間的な隔たりに歴史的連続性を見出し、一貫したストーリーとして整理することが今後の課題だ。波房克典氏は、「なぜ灯台がそこにあるのか」という問いを出発点に、旅行や観光へと発展し得る新たな可能性に期待を寄せた。

「旅は発見であり、目的地は人である」

ライター 佐藤真生