※本記事は、ジャーナル掲載記事の背景を紹介する取材記録です。
私は、くじらに憧れている。それは単に大きいからではない。同じ哺乳類とは思えないような、圧倒的な身体を持ちながら、大海原を静かに、そして堂々と泳ぐその姿に、余裕を感じるからだ。
そこで 、くじらを題材にした海ノ民話の企画を立てたいと、調査を進めた。
その中で目を引いたのが、長野県小海町に伝わる海ノ民話『くじらの夫婦』のオペラ公演に向けた取り組みだった。
このプロジェクトを手がけているのは、東京の国立音大出身の同期3人で結成したオペラグループ「trio99」である。地域住民を巻き込みながら、小海町で創作オペラを創り上げているという。
民話は、口伝えによって語り継がれてきた。語り手が物語を受け取り、自身の中でかみ砕いた上で語り直し、それを別の誰かが受け取る──その繰り返しによって受け継がれてきたのである。
その「語り直し」の一つが、オペラという表現になるとしたら、物語はどのように立ち上がるのだろうか。想像するだけで期待が膨らんだ。
海のない“小海町”
2025年11月上旬、オペラを観るため、住まいのある札幌市から小海町に向かった。
小海町は、八ヶ岳連峰の裾野に広がる山あいの町である。
飛行機で羽田空港に着陸後、東京駅を経由して長野県東信地方の拠点・佐久平へ。そこから、日本一標高の高い場所を走るローカル線「小海線」に乗りかえ、ようやく小海駅にたどり着く。ここまで、ほぼ一日を要する長旅だ。小海町に近づくにつれて、列車は山と山の間を縫うように進んでいった。

ところで、山に囲まれたこの地に、なぜ「海」という字を使う地名があるのだろうか。
文献によれば、平安時代に起こった地震の影響で、この地域にはいくつも湖沼が生まれたという。その中の一つに「小海湖」と呼ばれる湖があり、それが地名となっているのだ。
現在、小海湖の水は引き、その姿を見ることはできない。しかし、かつてこの地に水をたたえた景観が広がっていたことを、地名が静かに物語っている。
地域とともに創られるオペラ
小海駅に降り立つと、冷たい雨が、静かに降り注いでいた。人影はまばらだ。
駅舎の一角には、そっと1冊の本が置かれていた。一般社団法人日本昔ばなし協会による『くじらの夫婦』のアニメーションを絵本にしたものだ。周囲を見渡すと、駅やその周辺にはオペラ公演のポスターが貼られている。オペラ『くじらの夫婦』は、町をあげての催しであることが伝わってきた。


会場行きの臨時バスに乗り、曲がりくねった坂を登って小海小学校へと向かう。
会場は、小学校の体育館だ。体育館の前には、地元の人々による出店が並び、雨の中でも活気にあふれていた。

オペラというと、どこか敷居の高いもの──きらびやかで、日常とは切り離された空間を思い浮かべていた。しかしそこに広がっていたのは、町の人々が力を合わせて創りあげた、温かさのある非日常だった。
オペラが生み出す民話の新たな世界観
会場は、ほぼ満席だった。
来場者の多くは地元住民で、チケットは発売後すぐに完売したという。観たくても入場できなかった人も多く、この舞台への関心の高さがうかがえた。

リンリン……とハンドベルの音がなり、いよいよ幕が開く。
会場が暗転すると、そこが小学校の体育館であることを忘れてしまう。気づけば、すっかり舞台の世界に引き込まれていた。
魂に響く歌声と、情景が目に浮かぶような音楽。そこに、大小さまざまな演出上の工夫が重なり、観客と舞台が一体となっているようだった。
オペラの詳しい内容や、trio99のメンバーが語るオペラ創作のこだわり、さらに地域の人々と創り上げた舞台裏については、2026年春発行予定の『海ノ民話学ジャーナル』で紹介する。ここでは、民話が語り直され、土地の人の手に渡り、また別の形で息をし始める、その場に立ち会えたことを書き留めておきたい。
山に囲まれた小海町で、『くじらの夫婦』という海ノ民話が、確かに生きていた──。
コミュニケーター養成プログラム受講生 Y.I.